さて、今回は「りんちゃん」のお話です。
ヒノさんとりんちゃんの出会いました場所は山形。ヒノさんが、山形出身の工業デザイナー芳武茂介さんの回顧展を山形まで見に行った時、当時、展覧会場のギャラリーで働いていた、りんちゃんの夫であるノグチくんとりんちゃんを紹介されたのでした。
その後、2人は仕事を東京でするようになり、物理的な距離も近くなり、仲の良い付き合いが始まりました。ある時、ヒノさんは当時関わっていた旭川のプロジェクトの講師としてりんちゃんを呼びたいと思い、ポートフォリオを預かりました。思えば、その時、りんちゃんは、まだ駆け出しで、商品化されたものはほとんどなかったと思います。
ヒノさんは、ポートフォリオの説明を聞くことで、りんちゃんの考え方を知り、りんちゃんのデザインの仕方にすごく好感を持ち、「この人は良いデザインをする人だ」、と確信をもったのでした。良いデザインというのは、単に「かたちがキレイ」と、いうだけでなく、人の動きを考慮することも含めてデザインだと思うのです。そして、デザインは図面だけで成り立つわけではありません。あくまでも「つくる」という「作業」を経ないとモノはできませんが、まさに、りんちゃんは、「つくる工程」を把握しながらデザインする人であることは、その後の動きで明らかになっていくのでありました。
どうやってりんちゃんがこうなったのか気になり、探ってみました。
幼少期。お気に入りのクッションと山ほどの本があれば、ず〜っとその本を読んでいる子どもだったそうです。それと同じぐらい好きだったことが、住宅展示場に行くことと、おもちゃのお家を段ボール箱で作ることだったそうです。でも、モノには興味がなく、自分のモノでも、いとこが欲しがったら、なんの未練もなく、あげてしまう子供だったそうです。
お父さんとお母さんはどんな人だったかというと、お父さんは水彩画が趣味だったそうです。そしてとにかく本の虫。ここは、直球に引き継いでますね。
人には「いい出会い」の有無で、人生が左右されると思いますが、りんちゃんには何回もあったそうです。
まず、小学校の担任の先生。その先生は教科書を使わない大胆な授業法で、国語が社会に、社会が理科に、理科が家庭科につながり…という具合に、生きていることがすべての授業になったそうです。多分、りんちゃんの「くらしをデザインする」姿勢は、そこから大いに影響されているようです。
中学、高校と、過ごしたりんちゃん。山形県の、出来て間もない美大に進みました。
美大では建築ということも考えましたが、大学の建築学科は家だけでなく、街も考えなくてはいけない。りんちゃんは、家の中での住まい方には興味があるけれど、街づくりにはそこまで熱中できない、と思い、プロダクトデザイン学科に進みました。ここでも、今でも恩師と慕う教授との、「いい出会い」がありました。
「渥美浩章先生からは、客観的にものごとを捉えること、一見、本題と関係ないような些細な事柄でも、身近なことに目を向けることの大切さを学びました。
もうひとり、羽生道雄先生からは“デザイナーは現場に立て”ということをよく言われました。自身も工業デザイナーである羽生先生は、展示会などに立ち、使う人の率直な意見を聞くことで、製品がどんな場所で、どんな人に手渡されるのかを体感することを大切にされていたそうです。学生時代にはわかりませんでしたが、仕事を始めてから、先生の言っていたことが理解できるようになりました。」と、りんちゃんは二人の恩師との出会えた幸運を語ります。
さて、建築学科ではなかったりんちゃんですが、就職したのは建築会社でした。そこでは、りんちゃんは、コピー取りや事務仕事に従事することになりました。正直、カタログを見ながら、積算する作業という事務仕事は地味で面白くなかったそうです。ところが、1年経ったある日、社長さんが新しい製図台を用意して、言いました。「君は、今日からここで働くんだ」、と。事務から実務への劇的な転向です。その出来事には、もちろん感激しましたが、驚いたのは、新しい仕事を始めてからでした。あの地味な積算の仕事をしていたおかげで、お客さんの要望に合う家を建てるには、どのカタログのどんなページのどんなものを使えばいいか、無駄な時間を使わずに、作業ができたのです。「基礎が大切」「急がば回れ」を教えてくれた、この社長との出会いも「いい出会い」でした。
さらに、家を建てる時に関わる様々な職人さんとの、「現場」という実践の場での出会いも大きかったといいます。今のプロダクトの仕事にも繋がる、職人さんとの「つき合い方」。もの作りも様々な職人さんと付き合います。この建築の仕事で「現場で仕事をする人とのつき合い方」を、学んだのでした。
その後は、社長には申し訳なかったけれど、やはり、建築は一生涯の仕事にはできないと、退社。大学院に入り直し、途中、スウェーデンに留学。子供の頃からずっと「モノへの執着心がなかった」りんちゃんも、自分の稼いだお金で一人暮らしをするとなると、身の回りの道具にこだわりを持つようになりました。(今も、りんちゃんのお家には、スウェーデン時代に入手した、素敵なものがたくさんあります)
留学から帰り、大学院を卒業したのち、大学の助手として働くことになりました。助手として働きながら、様々なデザインコンペに応募します。コンペで、受賞すればそれはもちろん嬉しかったですが、受賞により、多くの人に出会えたことが大きかった、と言います。実際、ヒノさんとの出会いも、そうでしたから。
その後、ヒノさんに預けたポートフォリオのおかげで、旭川に行くことになります。旭川では、高橋工芸http://takahashikougei.comの高橋秀寿さんの工房に行き、仕事をじっくり見せてもらいました。その技術、仕事に対する愛情とプライドはすばらしく、その高橋さんへの敬意をかたちにしたのが、「cara」http://takahashikougei.com/products_category/cara/というシリーズでした。
りんちゃんは言います。「デザインは好きだけれど、得意ではない」と。
一見、意外に思える、この一言は「作り手不在のデザインはできない。息の合う作り手、尊敬する作り手一緒にデザインはしたい」と、言い換えられるのではないでしょうか。
一人ではデザインできない不器用なデザイナーのりんちゃん。でも、「この人と仕事がしたい」と、思った相手とは、予想もつかない、素敵なものができるのでした。
conteのことを、冗談好きなりんちゃんなら「いやぁ、父さんと母さんから生まれたとは思えない、出来の良い子が生まれちゃって」と、言いそうです。でも、それは、父さん=ひろ坊と母さん=りんちゃん、二人だけから生まれたからではないのです。
その話は追い追い。