初回のコラム

第1回 conte誕生前夜

で、ヒノさんにとって「燕の物づくりは謎の一つ」と書きましたが、燕に生まれ育ったひろ坊にとって、燕という場所はどんな場所なのでしょう。今回はひろ坊に聞いてみました。

その前に、燕という場所がどこだか、皆さん、ご存じでしょうか。

 

燕市は新潟県の中央あたりに位置し、県央地区とも呼ばれています。

“燕三条”という言葉を聞く人も多いと思いますが、これは新潟県燕市と三条市、二つの市に跨がる新幹線の駅名なのです。ちなみに、高速道路のインターチェンジは”三条燕”。順序が逆です。お互いに競い合うこの二つの市。順序を逆にすることで、平等感を出したとか聞いたことがあります。最近では、”燕三条 工場(こうば)の祭典”

燕三条 工場の祭典

という町工場を開放するイベントで、”燕”と”三条”を知った人もいらっしゃるかもしれません。東京から燕三条まで新幹線で1時間50分ほどです。2018年下期に放送されたテレビドラマの”下町ロケット”の舞台にもなったのですが、この番組で重要なポイントとなったのは米作り。「米どころだったら(りんちゃんが大学時代を過ごした)山形でも良かったのではないか」と、思いましたが、山形までは新幹線で2時間45分。度々、新潟〜東京を往復するこの話では、この「東京都の往復が2時間切る」ということは必要不可欠だった、と思ったのでした。

 

2013年から開催されている【燕三条 工場の祭典】2019年は10月3日〜6日開催予定。 新幹線の駅を降り立つと、一面、ピンクのストライプで、気分が盛り上がる。(2014年撮影)

さて、”燕三条 工場の祭典”というイベントが成り立つほど、燕には工場が多いのですが、いざ、駅から街に降り立っても、”祭典”の時期以外は、工場がどこにあるのかほとんど分かりません。しかし、盛んに”ステンレス加工産地”と言われます。そこで燕で”プレス”という工程を担う工場の次男坊のひろ坊に、いろいろ聞いてみました。

 

上越新幹線・燕三条駅を降りると、ずらっと、メーカー毎のステンレス加工品のショーケースが並んでいる。

▽ 同級生で、ステンレス加工など、地場産業に関わっている子はどのくらい、いましたか?
ひろ坊:(ひろ坊が小学校の頃の30数年前で)材料・部品などの諸々の加工、メーカーなら2割。問屋さんを入れたら+1割=3割くらいだったかな。感覚ではそんな感じでしたね。

 

▽ おうちの職業を意識したのはいつ頃?
ひろ坊:小さい頃から、工場には出入りしていたんです。最初は“銀色の金属で何か”を作っているというだけで、何をしているかは判ってなかったけれど、中学に入った頃、製品の個別袋詰めや箱詰めを手伝って、おこずかいをもらってました。それで、ようやく、作っているものが何なのか、分かりました。

 

▽ 誰が、工場を始めたの?
ひろ坊:昭和21年頃(1946年頃)に祖父母で始めたそうです。”燕は町全体で一つの工場”、とよく言われますが、小さな町工場が、それぞれいろいろな工程を担っているのです。”同級生のおうちの職業”も、”一工程”を担う工場が多く、うちは”磨き”でした。しかし、いろいろ気にかけてくれていた卸問屋さんが「こんなものを作ってみては」と、その当時、よく売れていたアイテムを教えてくれ、商品を作るようになったようです。その時、プレスの機械も工場に入れたので、プレスの工程を生かした自社商品と、OEMと呼ばれる他社のデザインの生産をするようになりました。一番最初の自社商品は、アイストングだったようです。

 

▽燕の分業体制を教えてください。
ひろ坊:商品を作るのには、いろんな工程が必要で、押したり、切ったり、磨いたり、洗ったりする工程や、押すための型を専門で作るところも必要なんです。それらを全部、一つの工場で行う、というのは、場所も必要だし、機械も、専門の技術も、人数も、お金も必要。燕の一般的な工場で、幾工程分の機械への高額な設備投資は難しいです。それより、”餅は餅屋”で、その”工程の一つ”を極めていくと、技術が極められるし、効率も良いので、単価も下がる。外から見ると「そんなに細かいところまで、作業を分けているの?」と、びっくりするかもしれないけれど、それで上手くいっているのが燕のステンレス加工産業なんですよ。燕で作るロットがそこそこの量なので、”一工程”だけでも、ちゃんと仕事になるんです。僕ら、それぞれの工程のプロがいるから、安心して、自分の仕事に集中できているんですよ。

 

なんとなく時代を感じさせる風合いの、ひろ坊の実家でかつて作っていたミルクピッチャーとベビーフォーク。

なるほど、なるほど。なんとなく、燕の構造が分かってきました。
次に、ひろ坊がおうちの仕事に関わるようになったのは、どういうきっかけがあったのか、聞いてみました。

 

▽ ひろ坊が実家で働くようになったのはどういう経緯?
ひろ坊:成人してから、しばらく海外放浪をしてました。(ヒノ注:自分探しかな?笑)オーストラリアに行った時、舗装されていない道を通ったりするツアーに使われていた車は、大体、トヨタのランドクルーザーで、運転手たちが「故障もなく、安全に旅行者を楽しませることができるトヨタの日本はとても素敵だ」なんて話しかけてくれたんです。それで「ものづくりなら、自分の仕事内容を世界中に届けられるのでは」と単純に思い、それが一番自由にやれるところは、と、考えると実家に入れば自由にできるなと思って、帰国して、工場に入りました。

 

ひっそりと佇む町工場。なかなか素人は足を踏み入れる雰囲気ではない。

▽いきなり帰ってきて、家族はすぐに受け入れてくれたの?
ひろ坊:あんまりやいのやいの、いう家族じゃないので、「会社に入りたい」といったら「はい、どうぞ」という感じで(笑)、違和感はなかったみたいですね。入ったからといって、特に役割分担を言い渡されなかったので、(ヒノ注:なんて大らかな社風!!!)工場に入ってまずしたことは、掃除、整理でした。商品を覚えるのに役立ちましたよ。でも実際は、商品在庫はあっちこっちにちらばり、置いた人でないとどこにあるか分からない、また、伝票は手書きの複写だったので売上・仕入を全く把握できていない(家族経営の工場によくありがちな)状態でした。外から入ってきたから、その無駄が見えたので、倉庫を掃除して棚を揃えて、在庫管理、販売管理ソフトを入れてPC化でデータ収集を行いました。

 

そう言えば、ひろ坊の会社を最初に訪れた時、工場の入り口に、商品と伝票が置いてあって、それを地元の問屋さんがピックアップに来ているところを見て、”宅配業者のいない世界”と、思ったことを思い出しました。後で聞いたところ、数が多いときは、工場から自分たちで運ぶそうです。何れにせよ、ほぼ、車で運べる近隣との仕事なので、宅配業者に頼むより、自分で運んだり、取りに来てもらうことで、自然と顔を突き合わせるので、仕事も切れずに続いていくのかもしれません。

 

会社の入り口の写真 ピックアップしてもらう商品と伝票入れ。

▽ とは言え、今、工場にいっぱいある機械は一通り、扱えるようだけど、どうやって覚えたの?
ひろ坊:会社にいる人たちは、1/3は親族で、2/3は子供の頃から知っている人たちでしたから、作業している側で教えてもらいました。教えて、と頼んで。まぁ、みんな嫌とは言えないですよね(笑)。社外の技術等は外の講習に通って、習得しました。あとは、外回りで眺めて覚えたものもあります。小さい頃から、分業のそれぞれのオヤジさんたちとも顔見知りだったのが良かったですね。みんな親身に教えてくれますよ。

 

もちろん、工場同士も、卸問屋さんも、それぞれ儲けるために、切磋琢磨しているのだから、お互いがライバルでいい話ばかりではないとは思いますが、燕という土地と、燕のおじさんたちによって育ててもらったひろ坊の口からは、燕に対する誇りが感じ取れました。

 

と、今回は、こんな感じで、”ひろ坊と燕のものづくり”を、ご紹介しましたが、少しは、燕の雰囲気が感じ取れたでしょうか。

次はやっとこさ、“どうやってconteのプロジェクトが立ち上がったか”、のお話の予定です。

 

ひろ坊の会社の天井に東西南北のパネル発見! 手で運べないような重いモノを運ぶ時にクレーンを使うそうですが、誰がどの位置から見ても同じ方向を指す言葉として使うそうです。